グリーグとリスト

グリーグは、少年時代にノルウェー(当時はスウェーデン領)から、ドイツのライプツィヒ音楽院に留学に行きます。
ライプツィヒ音楽院では、古典音楽を中心に教えていて、シューマンワーグナーといった音楽は、急進的と言われ、学ぶことは推奨されていませんでした。
グリーグ自身はクララ・シューマンの演奏する、シューマンのピアノ協奏曲を聴いたとき、「俺のやりたい音楽はコレや!」と、ドイツロマン派の音楽に開眼したとか。
そんなグリーグなので、音楽院のレッスンで古いエチュードを演奏しても退屈としか感じられずに、つまらなそうにピアノを弾いていたら、先生に思いきり叱られたそうです。
(「先生が目の前の楽譜を急につかんで投げると、レッスン室の反対側の隅まで飛んで行った。生徒の僕に対しては同じことはできないので、先生は僕に怒鳴ることで我慢した・・・」だそうです。パワハラやん)

グリーグは音楽院を卒業した後、25歳のとき有名なピアノ協奏曲を作曲し、その成功がもとになり、グリーグは音楽界で一躍有名になります。

グリーグはとても小柄な人だったらしく、身長は155cmほど(確か)だったくらいです。
後の、同じくピアノ協奏曲で有名になるラフマニノフは2メートル近い大男だったらしいです。
大作曲家同士で連弾などやってくれたら面白い絵になりそうですね。

グリーグの壮年期、彼のピアノの椅子にはいつもベートーヴェンピアノソナタ32曲の楽譜の本が置いてあり、その上に座ってピアノを弾いていたそうです。
それは音楽院時代の尊敬する教師が編纂したピアノソナタ全集で、それに乗っかってピアノを弾くことでベートーヴェンへのリスペクトを表していたらしいですが、現代の感覚からすると侮辱にしか思えませんが、それはグリーグなりの親愛の証だったのでしょう。

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前回のショパンと今回のグリーグは、直接顔を合わせたことはないのですが、共通の知り合いが登場します。
それが、前回と同じくフランツ・リストです。
リストとショパンが出会ったときはお互い20代でしたが、グリーグショパンが出会ったときは、グリーグが20代後半、一方のリストは還暦近い年齢で、親子ほど歳が離れていました。

グリーグとリストの出会い>
場所はイタリアのローマで。
まずはそれに至るまでの、リストの動きを簡単にまとめます。

リストはフランスで超絶ピアニストとして活動したのち、ドイツのヴァイマルに活動の場を移します。
ヴァイマルで宮廷楽長として活動することになります。
時代はすでに19世紀中頃で、貴族のパトロンを後ろ盾に芸術家が活動するなどというのは、もはや古い慣習になっていましたが、リストはあえてその道を選びます。
その頃のリストは、ピアノ曲よりもオーケストラ曲・宗教曲に力を入れるようになります。
リストの楽曲が、ピアノ曲以外はあまりピンとこないのも、壮年期以降のこの宗教曲の存在があまりメジャーではないから、というのもあるのではないでしょうか。
実際にはリストの宗教曲は非常にレベルの高い作品群・・・らしいです。よく知りませんが・・・。

壮年期以降のリストは、作曲家・演奏家として培った広い人脈で、音楽界の権威の象徴のようになっていました。
教育者としても有名になっていて、数多の生徒がリストのレッスンを受けようと、彼のもとを訪れたといわれています。
その数は数百人にのぼるとか。
当時の音楽家にとってリストのレッスンとは、もはや受けるだけで経歴に箔がつくほどまでになっていたので、中にはいちどリストの講義を聴いただけで「俺はリストの弟子だ」と言い出す輩もいたとか。(リスト自身はそういう人たちのことは全く相手にしなかったそうです)

リストはドイツを離れると、イタリアに引っ越してきます。そこで過ごした家が、エステ家と呼ばれる名家の別荘でした。
リストのピアノの名曲「エステ荘の噴水」は、その別荘の印象をイメージした楽曲です。

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ここまでがリストの動きです。
イタリアでリストと出会った若き大作曲家が、グリーグです。当時のリストは60歳くらいで演奏家・作曲家・教育者として成功した人物として欧州中で最高の評価を得ていましたが、グリーグは27歳、まさにこれからという新進気鋭の音楽家でした。
リストと出会ったグリーグは、彼が作曲したバイオリンソナタ1番とピアノ協奏曲の楽譜をリストに見せると、リストはそれらを初見で弾き、グリーグの才能を称えます。
ピアノ協奏曲の3楽章のクライマックス部分で、「GisでなくG!これぞスウェーデン的(当時ノルウェースウェーデン領)だ!すばらしい、あなたには才能がある」と言ったとか。

私にはどの部分のGの音を言っているのかサッパリわかりませんが、とにかくグリーグの音の使い方は、リストにとって衝撃的だったようです。
この言葉がグリーグにとって大きな励みになり、その後の飛躍の礎になったと言われています。
リストと出会っていなかったら、グリーグのその後の名曲、例えばペール・ギュントといった音楽は、生まれてこなかったかもしれませんね。

後年、グリーグノルウェーを出て国際的に活動の場を広げようとしたときにも、リストの支えがありました。
当時はノルウェー国外へ出て活動するにはノルウェー政府の許可を得る必要がありましたが、その許可を得るために、リストはノルウェー政府に推薦状を送っています。
きれいなフランス語で書かれた推薦状だったそうです。
すごいですね。ハンガリー生まれでフランス・ドイツで活動し、それらの言葉はすべてマスターしている。
数多の作曲家の中でも、国際的に本格的に活動した初期の例でしょう。

 

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つづく