ラフマニノフ交響曲とティンパニ
ラフマニノフ交響曲2番には、好きな部分がたくさんあって数えきれないほどですが、私は特に1楽章が大好きです。1楽章の終結部分は、勢いにまかせて突き進み、重い1音で締めくくられます。
ところがその1音が問題で、まずは下のスコアを見てみましょう。1楽章の終結部の抜粋です(非常に見づらいですが)。
上の画像の右下部分、赤枠で囲っているとおり、
最後の音は、低弦がミ(E)を弾くだけなのです。それ以外の音はスコアには書かれていません。
それなのに、色々なCDを聴いてみると、なぜかティンパニの音が入っている録音が多いのです。
ざっと思い出してみるだけでも、とても気まぐれで入れたとは思えないくらい、たくさんのCDでティンパニが入っていた気がします。
そこで、これまで聴いたCDを振り返って、傾向をまとめてみました。
(条件:CDでリリースされているものに限ります。YouTube等の動画で配信されているものは対象外としました。)
<ティンパニの音レベル比較:1楽章の最後の1音>
グラフの横棒は、ティンパニを叩く音の大きさを表しています。10が最大です。
何と、今まで僕が聞いた21枚のCDのうち、実に11枚がティンパニ入りを採用していました。
特に、ビシュコフ・テミルカーノフ・スヴェトラーノフ・ヤンソンスの4名は、もう叩くか叩かないかのレベルではなく、いかに強くティンパニを叩くかを競っているかのような、開き直っているかのような印象を受けます。
もう一度言うと、ラフマニノフ自身はこの最後の音は低弦を弾くようにしか指示していません。
確かに、それまでの曲の流れから考えると、最後の音をもっと華やかに鳴らして締めくくりたいという気持ちも、わからなくはないと思います。
しかし、ここはあえて低弦だけで終わらせた方が、それまでとのギャップを強調できて、厳かに締めくくることができるのではないかと思うのです。
…なお、私はティンパニ強打勢の演奏は大好きです。意思の強さをひしひしと感じることができるような気がします。
ベートーヴェン交響曲7番の2楽章
ベートーヴェン交響曲7番の2楽章が好きです。
この交響曲は全ての楽章が好きですが、特に2楽章が素晴らしくて、
ベートーヴェンの全交響曲の中でも最も出来がいい楽章ではないでしょうか。
この曲の序盤は、低弦から高弦に向けて主題を渡していくのですが、
主題の中に、演奏者によって大きく解釈が分かれる部分があります。
ほんの一部の短いフレーズですが、その違いがどうしても気になってしまうのです。
どのくらい気になるかというと、その部分が自分の好みに合わないだけで、
そのベト7の演奏はおろか、全集なら全曲の演奏が嫌いになって即売りに出してしまうくらいで、交響曲全曲の中で最も重要な部分なのです。
いくら他の曲の演奏が良くても、ベト7のここがダメだと全部ダメなのです。あばたもえくぼにはならないのです。
その箇所が、セカンドバイオリンなら53小節目以降の、画像の矢印の部分、
装飾音符とセットになっている「シ・ド・レ」の3音です。
この部分の演奏には、大きく4通りあると思っています。
1.穏健派:装飾音符というより、16分音符的に扱う演奏。穏やかに聞こえる。
2.ノーマル派:装飾音符を装飾として扱うが、あくまで楽譜に忠実で詰めすぎない演奏。
3.マイルド過激派:装飾を詰めまくる演奏。ただ小節をはみ出ることはない。
4.過激派:装飾が前の小節まではみ出る演奏。装飾をアウフタクト的に扱う。
自分は過激派アレルギーです。
この部分は、たとえ楽譜に忠実でなくとも、穏健であればあるほど良いと思っています。
もし、お金を出して買った全集が過激派だった場合は、
わくわくをすべて奪い去られたような虚脱感に襲われるのです。
穏健すぎると、装飾音符ではなくただの16分音符になり、
そのあとのDが付点四分ではなくただの四分音符になってしまうのですが、
それでも自分は穏健派を支持します。
今まで聴いた中だと、過激派はあまり多くはない印象ですが、
傾向はどうなっているのか、実際に聴いて調べてみました。
今まで自分が買ったり借りたりした音源を数えてみると62通り持っていたので、
これらを聴き比べて、穏健派から過激派までカテゴリー分けをしてみました。
その結果は以下です。
※演奏全体の速度や演奏法は関係なく、この部分だけがどういう弾かれ方をされているかだけで判断しました。
演奏が超スピード系でも、ここが16分音符的に弾かれていたらそれは穏健派です。
演奏によってここまで印象が変わるとは。
上から順番に聴いていくと、穏健派のエリアを聴いた瞬間、その安心感がまるで実家の風呂に入った瞬間というか、
懐かしさのような感覚まで覚えて涙が出そうになります。
穏健派最強のケーゲルなんかは、装飾音符がもはやほぼ完全に16分音符になってしまっています。
意外だったのは、全体の演奏の速度と、この部分の弾き方はあまり関係が無いこと。
サヴァリッシュのように、全体はゆったりとした演奏でも、ここだけ詰めまくりなものもあったりします。
ある意味楽譜に忠実といえばそうなのかもしれませんが。
また、カラヤンの演奏が凄まじい推進力なのに意外と穏健派なこと、
バレンボイムが詰め込んでいたり穏健派だったりとバラバラなこと、等。
人によって一貫したスタイルがあるわけでなく、同じ人でも時期が違うと演奏方法が変わるのが印象的でした。
こうして見ると、シャイ―とヤンソンスというコンセルトヘボウの歴代指揮者が、
過激派の傾向があることが意外でした。
この人たちの演奏は、好きになろうと色々聴いているのですが、なぜか趣味に合わないものが多いです。
(ヤンソンス(RCO&BRSO)の火の鳥とか、シャイ―(LGO)のブラ2とか…。)
他には、バイオリンが対向配置になっているものが多かったのも印象的です。
対向配置は好きですが、全てにおいて良いわけでなく、音がバラついて聴こえてしまうのが欠点だと思います。
特にブラームスなんかは対向配置ではないほうが良いのではないかと思うときがありますが、
ベト7はファーストとセカンドの掛け合いが多いので、この曲は対向配置が効果を上げている例だと思います。
以上、疲れました。
広辞苑をシュールに読む
電子辞書を使うのが好きです。
電子辞書が好きといっても、文章をたくさん読むから辞書を使うというわけではなくて、
広辞苑のシュールな説明を読むのが好きです。
辞書というのは、簡潔な日本語の記述のお手本です。
無駄な表現を極限まで削ったうえで、誰が見ても間違いが無いように意味を説明するという、
日本語の達人の芸を見ることができるツールだと思います。
ただ、簡潔な表現を突き詰めた結果、簡潔すぎてシュールになったりします。
例えば、ドロドロとした人間関係が繰り広げられる「三角関係」を調べてみましょう。
≪三角関係≫
三者間の関係、特に三人の男女間の複雑な恋愛関係。
以上。一文のみ。
愛と憎しみが入り混じった壮大な物語を、「複雑な」の一言で片づけてしまうその勇断。
これは意味の説明文ですが、ものによっては例文も書いてあります。
例えば、「価値」という言葉。
≪価値≫
物事の役に立つ性質・程度。
(例) その本は読む価値がない
なぜかネガティブな説明。例文も説明文並に簡潔なのですが、なぜか「読む価値がない」と、下げてくる。
このように、どいういうわけかネガティブな例文が多いのです。
数ある例文のうち、もしかしたら半数近くはネガティブな意味の例文かもしれません。
簡潔でシュールな説明文&ネガティブな説明にあふれているので、
ときどき電子辞書の広辞苑を調べて、そういう面白い単語を発見すると、嬉しくなったりします。
今後何回かに分けて、書いていこうと思います。
グリーグとリスト
グリーグは、少年時代にノルウェー(当時はスウェーデン領)から、ドイツのライプツィヒ音楽院に留学に行きます。
ライプツィヒ音楽院では、古典音楽を中心に教えていて、シューマンやワーグナーといった音楽は、急進的と言われ、学ぶことは推奨されていませんでした。
グリーグ自身はクララ・シューマンの演奏する、シューマンのピアノ協奏曲を聴いたとき、「俺のやりたい音楽はコレや!」と、ドイツロマン派の音楽に開眼したとか。
そんなグリーグなので、音楽院のレッスンで古いエチュードを演奏しても退屈としか感じられずに、つまらなそうにピアノを弾いていたら、先生に思いきり叱られたそうです。
(「先生が目の前の楽譜を急につかんで投げると、レッスン室の反対側の隅まで飛んで行った。生徒の僕に対しては同じことはできないので、先生は僕に怒鳴ることで我慢した・・・」だそうです。パワハラやん)
グリーグは音楽院を卒業した後、25歳のとき有名なピアノ協奏曲を作曲し、その成功がもとになり、グリーグは音楽界で一躍有名になります。
グリーグはとても小柄な人だったらしく、身長は155cmほど(確か)だったくらいです。
後の、同じくピアノ協奏曲で有名になるラフマニノフは2メートル近い大男だったらしいです。
大作曲家同士で連弾などやってくれたら面白い絵になりそうですね。
グリーグの壮年期、彼のピアノの椅子にはいつもベートーヴェンのピアノソナタ32曲の楽譜の本が置いてあり、その上に座ってピアノを弾いていたそうです。
それは音楽院時代の尊敬する教師が編纂したピアノソナタ全集で、それに乗っかってピアノを弾くことでベートーヴェンへのリスペクトを表していたらしいですが、現代の感覚からすると侮辱にしか思えませんが、それはグリーグなりの親愛の証だったのでしょう。
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前回のショパンと今回のグリーグは、直接顔を合わせたことはないのですが、共通の知り合いが登場します。
それが、前回と同じくフランツ・リストです。
リストとショパンが出会ったときはお互い20代でしたが、グリーグとショパンが出会ったときは、グリーグが20代後半、一方のリストは還暦近い年齢で、親子ほど歳が離れていました。
<グリーグとリストの出会い>
場所はイタリアのローマで。
まずはそれに至るまでの、リストの動きを簡単にまとめます。
リストはフランスで超絶ピアニストとして活動したのち、ドイツのヴァイマルに活動の場を移します。
ヴァイマルで宮廷楽長として活動することになります。
時代はすでに19世紀中頃で、貴族のパトロンを後ろ盾に芸術家が活動するなどというのは、もはや古い慣習になっていましたが、リストはあえてその道を選びます。
その頃のリストは、ピアノ曲よりもオーケストラ曲・宗教曲に力を入れるようになります。
リストの楽曲が、ピアノ曲以外はあまりピンとこないのも、壮年期以降のこの宗教曲の存在があまりメジャーではないから、というのもあるのではないでしょうか。
実際にはリストの宗教曲は非常にレベルの高い作品群・・・らしいです。よく知りませんが・・・。
壮年期以降のリストは、作曲家・演奏家として培った広い人脈で、音楽界の権威の象徴のようになっていました。
教育者としても有名になっていて、数多の生徒がリストのレッスンを受けようと、彼のもとを訪れたといわれています。
その数は数百人にのぼるとか。
当時の音楽家にとってリストのレッスンとは、もはや受けるだけで経歴に箔がつくほどまでになっていたので、中にはいちどリストの講義を聴いただけで「俺はリストの弟子だ」と言い出す輩もいたとか。(リスト自身はそういう人たちのことは全く相手にしなかったそうです)
リストはドイツを離れると、イタリアに引っ越してきます。そこで過ごした家が、エステ家と呼ばれる名家の別荘でした。
リストのピアノの名曲「エステ荘の噴水」は、その別荘の印象をイメージした楽曲です。
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ここまでがリストの動きです。
イタリアでリストと出会った若き大作曲家が、グリーグです。当時のリストは60歳くらいで演奏家・作曲家・教育者として成功した人物として欧州中で最高の評価を得ていましたが、グリーグは27歳、まさにこれからという新進気鋭の音楽家でした。
リストと出会ったグリーグは、彼が作曲したバイオリンソナタ1番とピアノ協奏曲の楽譜をリストに見せると、リストはそれらを初見で弾き、グリーグの才能を称えます。
ピアノ協奏曲の3楽章のクライマックス部分で、「GisでなくG!これぞスウェーデン的(当時ノルウェーはスウェーデン領)だ!すばらしい、あなたには才能がある」と言ったとか。
私にはどの部分のGの音を言っているのかサッパリわかりませんが、とにかくグリーグの音の使い方は、リストにとって衝撃的だったようです。
この言葉がグリーグにとって大きな励みになり、その後の飛躍の礎になったと言われています。
リストと出会っていなかったら、グリーグのその後の名曲、例えばペール・ギュントといった音楽は、生まれてこなかったかもしれませんね。
後年、グリーグがノルウェーを出て国際的に活動の場を広げようとしたときにも、リストの支えがありました。
当時はノルウェー国外へ出て活動するにはノルウェー政府の許可を得る必要がありましたが、その許可を得るために、リストはノルウェー政府に推薦状を送っています。
きれいなフランス語で書かれた推薦状だったそうです。
すごいですね。ハンガリー生まれでフランス・ドイツで活動し、それらの言葉はすべてマスターしている。
数多の作曲家の中でも、国際的に本格的に活動した初期の例でしょう。
つづく
ショパンとリスト
僕が所属しているオケではいま、ショパン・チャイコフスキー・グリーグのピアノ協奏曲に取り組んでいます。
今まであまり興味のなかったこれらの曲ですが、CDを聴いてみるとびっくりするくらい素晴らしい曲で、なぜ今まで深く聴かなかったのだろうと反省するくらい感動しています。
そこでこの作曲家3名について調べてみたところ、意外と面白かったのでまとめてみることにしました。
この3名の年齢は、ショパンが一番年上で、チャイコフスキーとグリーグはショパンよりも30歳くらい年下です。
若い方の2名は、3歳違いというだけでほぼ同世代です。
彼らはひとくくりにロマン派と呼ばれますが、出身地域は全く違っていて、
ショパン:ポーランド
チャイコフスキー:ロシア
グリーグ:ノルウェー
このように3名ともてんでバラバラです。
バラバラなことで、お互い無関係なように見えますが、そこは才能溢れる大作曲家、重要な人物を介してお互いつながれていたりします。
◆リストの存在(ショパン・グリーグとの関係
<ショパンについて>
ピアノの詩人とよばれている、あまりにも有名な作曲家ですね。
あまりにも人気すぎて、「ショパンなんか女子供の聴くもの」みたいに思っているコアなクラシックファンもいるとかいないとか。
ですが、そんな簡単な言葉で片づけられないくらい偉大な方です。
ショパンは20歳くらいのとき、故郷のポーランドから、フランスのパリへ進出してきました。その後はフランスを中心に活動することになります。
途中、子持ちのジョルジュ・サンドという超絶個性キャラの女流作家と愛人関係になり、公私ともにバリバリ活躍します。
サンドさんとはけっこうな長い期間愛人関係が継続していたようですが、結局はお互いの考え方の違いから、破局してしまいます。
ショパンはサンドさんを心の支えにして生きていたようで、わかれたことが結構な精神的ダメージを負ったようです。
サンドさんのほうは、まだまだ女性が活躍するのが難しかった世の中で、ショパンの面倒を見つつ、自身は作家として成功していて、
バリバリのデキる女性できわめてタフ、一人でも何も問題なく生きていける人物でした。
何回も離婚を繰り返していたツワモノだったそうですが、そりゃこれだけパワーのある女性を男性が支配下に置こうとしても、
逆にボコボコにされるだけでしょう。
<ショパンとリストの出会い>
場所はフランスのパリ。ショパンがポーランドからフランスに状況(?)してきた20歳くらいのとき、すでにリストはピアノの達人としてパリで有名でした。
当時はここまで技術的に卓越した人物というのは画期的だったようで、一人の演奏の為だけに演奏会が開かれる、いわゆる「リサイタル」という形式を
克律したのがリストだったとか。
当時「演奏会」といえば、特定の演奏者をフィーチャーして行う現代の形式ではなく、ジャンルや演奏家の人数も問わず、色々な演奏家が次々に登場して
くるというような形式が、一般的だったと言われています。
リストはその神業的なテクニックと、ロン毛の美青年ぶりが加わり、そんなリストだけのためのリサイタルが開催されたというのだから、
それはもう想像を絶するくらいの人気ぶりだったのでしょう。
当時のコンサートというのは、それなりに身分の高い人たちしか聴きにきませんが、その聴き方は現代のような椅子にキッチリ座ってお行儀よく聴くのとは
少し違って、聴衆がステージに詰めかけて、ときには演奏家とお喋りをしたり、そういう軽い雰囲気だったとか。
ということは、ロン毛美青年のリストが華麗にピアノを弾き、詰めかけるファンと時々触れ合う。
まさに「会いに行けるアイドル」の元祖じゃないでしょうか。
そういうことでリストとショパンが出会うと、二人は互いの才能を尊敬し合い、ショパンはリストに練習曲Op.10を献呈します。
色々とリサイタルについて書きましたが、当時、ピアニストが活躍するメインの場は、貴族やブルジョアが集うサロンだったと言われています。
パリのセレブの邸宅にあるサロンで、貴族が贅を尽くしたもてなしをする中で、一流のピアニストを呼んで演奏させる。
当時はDJもオーディオ機器も無いわけですから、そうやってピアニストの生演奏でパーティの雰囲気を盛り上げていたんですね。
当時のパリピはサロンでピアノ、ということです。ピアニストがDJの役割を果たしていたと。
かくしてリストもショパンという時代の寵児2名は、若くしてセレブのサロンの人気者になったのでした。
どちらも作曲家として名を馳せていましたが、二人の作風は、どちらかといえばリストは雰囲気重視、ショパンは親しみやすさ重視という
印象を受けます。(あくまで個人の感想です)
そういうショパンの親しみやすさがセレブ達に受け入れられて人気を博すようになり、リストはショパンを少しずつ妬むようになってきたといわれています。
そういったことで、リストがショパンを皮肉る文章を書いて公表したりしているのですが、実はリストはライバルとなるピアニストが出てくると、
ディスって叩き潰そうとしてくる、意外とセコいところがあったらしいです。
ショパンの他にも当時有名だったピアニストもいましたが、それに対しても公に批判するコメントを発表しており、
「邪魔な奴はメディアで叩く」という、手段を選ばないやり方でずる賢く生き残っていました。
なんだか政治家みたいですね。
派手好きで顔が広い、パリピなリスト(でもライバルは徹底的にディスって潰す方針)
内向的で繊細な、ショパン(愛人とよろしくやってましたが)
対照的な二人が、当時のサロンの音楽で主役になっていたのです。
結局、ショパンとリストは色々あって仲直りします。
リストはその後ドイツに行ったりと国境を越えて活躍し長生きしますが、ショパンはさほどフランスから動くことはしません。
ショパンはもともと身体が弱く、40歳を迎える前に亡くなってしまいます。
つづく(かも)
コープランドの市民のためのファンファーレ
コープランドの「市民のためのファンファーレ」について。
コープランド(1900年生まれ)という人はアメリカ生まれの作曲家で、同じアメリカ人の作曲家として有名なガーシュウィン(1898年生まれ)よりも2歳ほど年下です。
ガーシュウィンは1920年代頃に、アメリカでジャズとクラシックを融合させた新しい音楽を作り、「狂騒の時代」と呼ばれたその時代のアメリカで、一躍時代の寵児となりました。
(ラプソディー・イン・ブルーとか、そのあたりの画期的な音楽で旋風を巻き起こしてました)
いっぽうでコープランドは単純明快な、誰にでもわかりやすい音楽づくりをしました。
そういったコープランドの音楽は、その後のバーンスタインや、映画音楽にも少なからず影響を与えているでしょうから、そういう意味では、
アメリカ人が、アメリカの文化にもとづいて、すべてのアメリカ人にとってわかりやすい音楽を作ったという、
真の意味でのアメリカ的な音楽家といえるかもしれません。
◇コープランドの代表曲
そんなコープランドの代表曲とされているのが「アパラチアの春」。
この時代の芸術音楽は、どうやって難しい構成にしていくか競争しているような、
どんどん難解な路線を追求するのが潮流でしたが、
その中で、時代に逆らうかのように明るいシンプルな曲を発表したのが、
当時の人たちにとって衝撃的だったようです。
発表されたのは1944年、第二次世界大戦がまだ続いていました。
世間が戦争ムードな中で、アメリカ人の素朴な精神、開拓時代の心を呼び起こすような
このアパラチアの春は、一般大衆に広く受け入れられました。
このアパラチアの春もいいですが、
僕が好きなのは、「市民のためのファンファーレ」です。
◆市民のためのファンファーレ
作曲は1942年、アパラチアの春よりも2年前です。
日本と戦争している最中に作曲されたということになります。
Wikipediaによると、「20世紀音楽の中で最もわかりやすい曲の一つ」という、
ほめているのか貶しているのかわからない書かれ方をされています。
もともと戦争に赴く兵士を鼓舞させる曲として依頼されたらしいですが、
コープランドの発案で、結局、市民をたたえるための曲ということになりました。
こうして、万人がやましいこともなく安心して聴ける曲になったということでしょう。
わざわざ一般大衆向けに作られたというところに、コープランドの、音楽は戦争のためでなくすべての人間のためにあるという意思が見て取れるような気がします。
ちなみに、オリジナルの曲名は「Fanfare for the common man」となっています。
直訳すると「普通の男の為のファンファーレ」となってしまいますが、
そこは翻訳の力で「市民のための~」となったことで、
いっそうポピュラーな音楽という面が強調されたように思います。
◆わたしのツボポイント
全部。とても短いこの曲の、全部が好きです。
市民のためのファンファーレには、金管楽器(と打楽器)しか登場しません。
僕は管楽器のことはよくわかりませんが、ただシンプルに「いい曲」だと思うから、
挙げました。
短い曲の中に、腹の底から勇ましさを奮い立たせる力を持っている曲だと感じるとともに、市民が苦しい状況の中で懸命に生きていることを表した、一種の「哀愁」すら含んでいるように思います。
インパクトのある曲なので、オケの演奏会のオープニングなどで使うと雰囲気が引き締まっていいと思うのですが…。
動画。
トランペットが4本も要るので意外と編成が大きいです。
ちなみに、コープランドは90歳まで生きた長寿な方(1990年まで生きてた!)でしたが、
ガーシュウィンは40歳になる前に亡くなっています。
もしガーシュウィンが第二次世界大戦の後まで生きていたら、どういう曲を作ったのか、ぜひ聴いてみたいですね。
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グーグルでCOPLANDと調べると、なぜかスタローン主演の映画がヒットします。B級臭のする雰囲気が、コープランドの曲の雰囲気に合っているような、そうでないような。
新古典主義とヒンデミット
ヒンデミットは19世紀末に生まれて、ふたつの世界大戦を経験し、1963年に亡くなるという、激動の時代を生きた人です。
ヒンデミットが全盛期のとき、歴史とともに音楽も混沌としており、その中でこの人がとったスタイルは「新古典主義(即物主義とも)」と呼ばれるものでした。
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早速ヒンデミットの生い立ちやらを調べようとしましたが、とにかく資料が少ないことに気づきます。
では新古典主義について書かれた本はあるかどうかと調べたら、それもない。
一大ムーブメントを起こした新古典主義ですが、まるで歴史の渦にのまれて消えてしまったかのように、悲しくなるくらい資料が少ないのです。
新古典主義はヒンデミット以外にも、ストラヴィンスキー、バルトーク、フランス六人組、プロコフィエフ・・・というように、面白い素材にあふれているように思います。ただ、例えばストラヴィンスキーの資料よりもフルトヴェングラーの資料のほうが多いくらいで、明らかに扱いが冷たいように思うのです。ストラヴィンスキーももっと評価されていい人物だと思いますが。
こんな資料が少ない中で、Wikipediaにヒンデミットの生い立ちとかが詳しく書いてありますが、本当にどうやって調べたんでしょう。
やっと新古典主義のことが書いてある本を見つけても、なんだか断片的で、まとまったわかりやすい資料がないので、この時期の全体像をつかみにくいのです。
それならということで、少ない資料の中から、ヒンデミットとか新古典主義とかについて書こうと思います。(付け焼刃の知識で書いたので間違っている部分があると思いますがご容赦ください。)
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<新古典主義>
そもそも新古典主義というのは、19世紀末に発生した考え方で、
「いまどきワーグナーみたいなバカでかいお涙ちょうだい系とかダセェから。バッハみたいにシンプルなのがカッケェから。」
超乱暴に言ってしまうと、こういう考え方から出発した概念のようです。
ロックでいうと、カート・コバーンがロックの概念をガラッと変えて、90年代の方向性を決めてしまったような、そんな感じでしょうか(この例えは的を射ている?)。
新古典主義の流れ自体は19世紀末頃から始まっていたようで、大まかにまとめると、
- フランスのサティが超シンプルでヘンテコな音楽を作り、
- イタリアのブゾーニが概念を提唱して(バッハへ還れと言ったとか)、
- ロシアのストラヴィンスキーが決定打となる曲を作って、
- フランス六人組がその影響を世に知らしめた、
という流れですかね。
ここまで、だいたい1930年代頃までの動きです。
で、第二次大戦が終わりしばらくすると、新世代の現代音楽が台頭してきて、衰退していきます。
その後はあまり顧みられなくなってしまい悲しい限りですが、全盛期の影響力は、今では信じられないくらい強く、パッと見あまり関係なさそうなR.シュトラウスにも影響を与えているようです(ナクソス島のアリアドネは、楽器編成が他の作品と比べて小さく、当時のトレンドを取り入れています)。
新古典主義の音楽が現代であまり顧みられないのは、ずばり「聴いていて面白くないから」でしょう。
そもそもの理念が、ロマン派のメロディ(抒情性)を排除することから始まっているので、感動する要素が少ないのです。
衰退してしまった新古典主義ですが、2000年以降に古楽器がブームになったりして、ブゾーニの"バッハに還れ"の理念は、かたちを変えて音楽家の心の奥底に深く根付いているように思います。
では、ヒンデミットはこの流れの中で何をしていたのでしょうか。
<ヒンデミット>
この人の場合、世代的にはフランス六人組とほとんど一致しています。
楽器はヴィオラを弾いていましたが、オケで登場する楽器はほとんど弾けたりして、かなりブッ飛んだ才能を持っていたらしいです。
ほかには自分の理論を体系立てて本を出版したりして、マルチな才能を持っていたみたいですね。
ヒンデミット単体で扱った本が無いので、彼のことを調べようと思うと、周りのエピソードからヒンデミットの境遇を洗い出していくしかないようです。
そこで絶対避けて通れないのが、フルトヴェングラーとナチスです。
このへんは主にスキャンダル的なエピソードで、ざっくり言うと、
「ヒンデミットが問題児だからナチスのゲッペルスとかがヒンデミットをイジメていたら、フルトヴェングラーがヒンデミットをかばったけど、結局、問題児をかばったフルトヴェングラーが干された。ヒンデミットは渡米。」こんな流れでした。
ヒンデミットの作品の良し悪しではなく、「あの」フルトヴェングラーのエピソードがあったから、ヒンデミットという人の知名度が上がったと。演奏家>作曲家という構図が20世紀らしいですね。
ヒンデミットは最初はヒトラーに気に入られていたようですが、彼がかなりきわどい作品「今日のニュース」を上演すると、一気に糾弾されてしまいます。
ヤバそうな作品はヒトラーのお気に召さなかったんですね。
ナチスが芸術作品を批判したのには明確な基準があるわけでもなくて、「なんとなく気に入らないやつは全部切っちまえ」的な発想で、独断と偏見にもとづいてバッサバッサと上演禁止にしまくっていました。
ちなみにこのオペラ「今日のニュース」は、裸(のように見える)女性が浴槽に入って歌うというシーンがあり、それが当時は大問題になりました。
当時の他の作曲家の例に漏れず、かなり尖った曲作りをしていたんですね。世相を考えると勇気ありまくりの攻め方でしょう。
当時のナチスは、伝統的なドイツ音楽ではないアバンギャルドなものはすべて「頽廃音楽」の烙印を押していたので、当時最先端をいく作曲家は、肩身の狭い思いをしていたようです。
欧州中で新古典主義が浸透する中で、ヒンデミットはドイツで自分の尖った音楽をひっさげて、体制に圧力をかけられながら、奮闘していたわけです。
ロックの精神というか、正義の反逆児のエネルギーを、ヒンデミットから感じることができます。
<ナチスと規制>
少し話がずれますが、ナチスが最も力を入れて攻撃していたのが、ユダヤ人作曲家でした。
これに関してナチスは、もう作品の良し悪しは関係なくて、とにかくユダヤ人だからという理由で、バンバン禁止にしまくっていました。
その筆頭がメンデルスゾーンでした。
他にもマーラーの作品も禁止されています。ナチス時代以前、ドイツではマーラー作品は何度か上演されていたらしいですが、それらがナチス後は禁止され、かわりにプフィッツナーという作曲家の作品に置き換えられてしまっています。
プフィッツナーさんの作品は聴いたことがありませんが、当時はエース級の作曲家だったのでしょう。
ナチスはメンデルスゾーンの作品を上演禁止にしようとしましたが、すでにドイツ国民に浸透していたので、これには規制する側も苦労したようです。
特に「真夏の夜の夢」の劇音楽は、聴衆はみんなメンデルスゾーンの音楽に慣れ親しんでいたので、メンデルスゾーンじゃない真夏の夜の夢なんて考えられない、それくらいポピュラーになっていた曲でした。
ナチスはメンデルスゾーンを禁止にするかわりに、他の作曲家に真夏の夜の夢の作曲を依頼しましたが、出来上がったものはなんだかパッとしない曲で、結局メンデルスゾーンがいかに偉大な作曲家だったか認識する結果となりました。
<ヒンデミットと同時代の人たち>
ヒンデミットは新古典主義時代のドイツ代表として活躍していましたが、新古典主義といってもスタイルが色々あって、例えばストラヴィンスキーとはやり方が異なっていたようです。
ストラヴィンスキーの場合は、「プルチネルラ」でペルゴレージの作品を蘇らせた手法、いわゆるコラージュのようなやり方を採用し、その後はバレエ発の独特のリズムをベースに、木管楽器を重視した、乾いた作風を突き進みます。
ヒンデミットのほうは、バッハの対位法を現代の技法でもって自分流に昇華させています。
新古典主義時代でのヒンデミットの代表作は、一連のソリストと小編成のオケによる、「室内音楽」でしょう。
この小編成オケというのは時代のトレンドで、例えばシェーンベルクは室内交響曲、ストラヴィンスキーは兵士の物語に取り入れています。
これは当時の世界情勢と密接に関係していて、第一次世界大戦のせいで楽団員を確保できないため、苦肉の策として小編成オケでも演奏できる曲を作ったという背景があったようです。
結局、ナチスに攻撃されたヒンデミットはアメリカに移住します。
ストラヴィンスキーも、シェーンベルクもアメリカに渡るのですが、それぞれ独自のスタイルを突き詰める方向に行きます。
ヒンデミットはアメリカで「ウェーバーの主題による交響的変容」を書きあげ、結局、そのあたりの後期に書かれた曲が、ヒンデミットの生涯の代表曲となります。
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ヒンデミットの曲は、かっちりと真面目につくられているようですが、悪く言うと、ストラヴィンスキーなどのような「華」がないので、「名前は知っているけど曲は知らない人」の代名詞のようになっているように思います。
ですが、皮肉りまくったパロディみたいな曲も作っていたりと、面白い曲をたくさん作っています。
実は「真面目にバカなことをやる」タイプの、面白いオッサンだったのかもしれませんね。
対位法を徹底的に研究して自分のスタイルに取り込んだりと、ブゾーニが言った「バッハに還れ」をもっとも忠実に追い求めた人かもしれません。
マルチな才能を持ちつつ、ある意味器用貧乏なヒンデミットに、もっとスポットライトが当たってもいいのではないでしょうか。
もっと色々と曲を聴いてみたいと思いますが、いかんせんリリースされているCDが少ない!まとまったBOXものなんかがリリースされたら楽しいんですけどね。
将来もっと価値が認識されて、知名度が上がることを祈りましょう。